思いがけない出会いを誘発する機能(=セレンディピティ)がTwitterにはある
Twitterのおかげでさまざな意見や知見に巡り会い世界が広がったという話をよく聞く。私たちひとりひとりが、外界といろいろやりとりしながら変化して行くオープン・システムの一部となっていることをTwitterを通して感じていることの証なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、リアルタイム+ソーシャルメディアというTwitterの特性にセレンディピティ (serendipity)ということばを付け加えたくなった。
セレンディピティは「偶察力」と訳されることもあるらしいが、翻訳がむずかしい単語のひとつとされ原語のまま使われることがほとんどだ。アメリカのジャーナリズム議論を見ていると、紙メディアの特性、特に新聞の特性として「携帯性(portability)」と並んでこのセレンディピティが時々登場する。意味としては“思いがけない記事に出会う体験”という感じで使われている。
セレンディピティは造語だ。イギリスの小説家であるホレス・ウォルポール(『オトラント城奇譚』の作者。政治家でもあった)が1754年に生み出した言葉で、当初は「偶然または聡明さによって、予期しない幸運に出会う能力」を意味したが、現在では、思いがけないものを偶然に発見することや、その能力をさすようになっている。
Wikipediaでは以下のように解説されている。
何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。
Twitterのタイムラインを「流しそうめん」にたとえた人がいたが、まさに私がすくい上げたそうめんは、偶然でしかない。たまたまキャッチしたそうめんからどんな幸運をつかみ取るかは人による。重要なのはそうめんを食べようとしている行為なのだ。そうめんを食べようとしていて、樋を見つめていたら途中の誰かが落とした入れ歯を拾って感謝され、そこから新しい出会いと物語が生まれたような……(お後がよろしいようで)。
へたな話を展開するよりは、ウォルポールが
「この言葉を理解していただくには、へたに語の定義などするよりも、その物語を引用したほうがずっとよいでしょう。
と書簡にしたためたように、私も『セレンディップの3人の王子(The Three Princes of Serendip)』のダイジェストを紹介しておくことにする。
王子たちが旅を続けるにつれて、彼らは常に新しい発見をした。智慧と偶然により、求めていたのとは異なるものを見いだしたのである。このような発見を、私は「セレンディピティ」と名付けたい」
というわけでとりあえず、物語の概略を掴んでいただくことにしよう……
アジアの端にあるセレンディップの国がありました。王様の名前はジアファと言います。王様には3人の王子さまがいました。ある日、ジアファは息子たちを旅に出すことにしました。大人になる前に世の中をたくさん見せて鍛えてやろうと思ったのです。
3人の王子はセレンディップを出発し、やがてペルシャの国にたどり着きました。そして都の近くでひとりの男に出会いました。その男はひどく落ち込んでいました。王子たちは不思議に思い、どうしたのかと尋ねました。
「ラクダさ、どこかに消えちまって困っているんでございます。どこかで見かけませんでしたか?」
すると王子たちは、あたかもそのラクダを知ってるかのように話しだしたのです。
「そのラクダは片目が見えないやつか?」
「そいつは歯が一本抜けてるだろう?」
「それに足が悪くて、引きずって歩いてるね?」いなくなったラクダは3人の王子たちが指摘した通りです。だから、ラクダの持ち主の男は王子たちが自分のラクダを本当に見たのだと思ってしまいました。そして、王子たちが来た方を探しました。
しかし、見つかりません。男は道を引き返して、また王子たちに出会いました。
「あんたら、本当に見たのかね? あっちにラクダはいなかっただよ……なんで見てきたようなことを言うのかね?」
すると王子たちはさっきとは別の話をしだしました。
「お前のラクダが背負ってる荷物は、片側がバターで、もう片側は蜂蜜だろう?」
「女も乗せてるね」
「その女は身ごもっているだろう?」王子たちの言うことはすべて本当です。だから、ラクダの持ち主は「こいつら俺のラクダを盗んだに違いない」と思いました。「でなけりゃ、こんなにいろいろ知ってるわけがない」。そう考えた男は王子たちを皇帝に訴えてしまいました。
「あいつらはラクダ泥棒です!」
王子たちは皇帝の兵士たちに捕らえられました。そして皇帝のベラモの前に引きずり出されました。
皇帝は、王子たちに尋ねました。
「どうしてラクダを見ることなくしてラクダを知るのか?」王子たちはいとも簡単にその理由を説明しました。
「道ばたの草が、左側だけ食べられてましたからね。ということは、右目は見えないのだろうと思ったわけですよ」
「草を噛んだ跡をよく見れば、歯が一本ないのはすぐわかりましたよ」
「片足を引きずった跡が道についてましたからね。見たとおりを言っただけですよ」
「道の片側にはバターに群がるアリがぞろぞろいて、もう片側には蜂蜜に群がるハエがいた。それをみれば荷物がなにかわかります」
「ラクダが座った跡の横に、おしっこをした跡がありましてね。これはラクダに隠れて女の人がしたのだなと思いました」
「そこには手の跡もあったので、これは妊婦が手をついて立ち上がったのだなと思いました」ベラモ皇帝は王子たちの観察力に驚きました。そして、自分のそばに置いていろいろな問題を解決させました。
やがて時がたち、王子たちはセレンディップへ帰ることになりました。惜しまれながらペルシャを後にして国に戻った後、それぞれ別の王国の王となり、幸せに暮らしたということです。
セレンディピティということばが持つ世界観は少し掴んでいただけたかと思う。
これを日本語にするのはとても難しいけれど、Twitterには求めずして思わぬ発見をする機能があることだけは確かだ。しかし、物語の寓意に従えば、それを生かすも殺すも使う人の能力次第ということになる。これもある意味でリテラシーの問題なのだろう。